明治時代のななえ
箱館戦争の勃発
慶応4年(1868)、徳川幕府が滅び、明治になると役所だった箱館奉行所を箱館府に変更しました。箱館府は今後の政策や住民の禁止事項など説明するため蝦夷地のあちこちに立て札をたてましたが、七重には徳川家に仕えていた八王子千人同心がいたことや、特に、峠下で塾を開き付近の若者たちを指導していた平山金十郎という人が徳川家からの恩を忘れることが出来ず、反乱を起こそうと決心しました。金十郎は、馬場政照や花輪五郎などと謀り、箱館府知事だった清水谷公考(しみずだにきんなる)を奪ってクーデターを起こす計画を立てましたが、裏切り者が出た為に失敗に終わりました。金十郎は逃げ延び、さらに松前で、徳川脱走軍と合流し、これに加わりました。
同様の動きが、国内規模でもおこっており、特に榎本武揚を中心とした徳川脱走軍は最後まで政府と戦う決心でいました。明治元年10月20日、武揚たちは軍艦7隻を率いて鷲ノ木村(現在の森町)に上陸、箱館府に蝦夷地へきた理由を伝える役目をもった隊を箱館へ向かわせ、大鳥圭介がその後に続く本隊を指導して南下、土方歳三の一隊は川汲峠を通って箱館府に向かうルートで箱館府を目指しました。
22日夜、先に進んでいた大鳥隊が峠下で宿泊していたところ、新政府軍が襲いかかり、ここに箱館戦争が勃発します。その後、七重や大野、大川などでも戦いが繰り返され、25日に五稜郭は脱走軍によって占領されました。
ガルトネル事件
明治維新より前となる文久元年(1861)に、箱館にきて貿易商を営んでいたプロシア(ドイツ)人のC(コンラート)・ガルトネルは、慶応元年(1865)に、箱館在住の副領事となります。そんな弟を頼る形で、慶応2年(1866)に、兄であるR(ラインホルト)・ガルトネルが箱館にきます。当時、箱館奉行だった杉浦兵庫頭(誠)は、 かねてよりC・ガルトネルに西洋の農業を試みたいと依頼しており、農業指導の経験のある兄のR・ガルトネルが紹介されました。ガルトネルは亀田村に土地を借り、農園の仕事を始めます。明治維新になり新政府が出来るとガルトネルは鍛治村でも耕地が使えるように要求し、合わせて箱館府に雇ってもらい、七重村を開墾出来るように取り決めをかわしました。
そんな折、箱館戦争が始まり、徳川脱走軍が蝦夷地を占領すると、ガルトネル兄弟はこの状況を利用して七重村の開墾計画を容易にしようと画策し、榎本武揚らと話をすすめ「七重村開墾条約」を結ぶことに成功します。この条約は七重村およびその付近の300万坪もの土地を99年間借り受け、その代り有志や近隣農民に西洋農法を教授するという内容のものでした。ガルトネルは明治2年から本格的にななえの開墾に着手し、西洋りんごや洋なし、グーズベリーさくらんぼなどの西洋果樹を栽培、そして、西洋式の農法を近隣の農民に伝授しました。ちなみに日本で始めて西洋りんごを栽培したのが、このR・ガルトネルと考えられます。
その後、明治新政府が北海道の開拓に着手しようと、函館に開拓使を設けると、七重の広大な土地を外国人に長く貸すことが、今後の北海道開拓を進める上で障害なること、貸しているいる土地を足がかりに北海道はもとより日本が列強国の植民地となることを恐れ、ガルトネルに多額の賠償金を支払うことで、土地を取り戻すことになります。ガルトネルは明治4年に箱館を出航し、翌年、横浜からドイツへ帰国しましたが、今でも、桜町の国道5号そばに、彼がななえの山から穂木を採取して植えたといわれるブナ林が「ガルトネル・ブナ林」として残されています。
七重官園
本州と気候が異なる北海道では、本州での行なわれてきた農業のやり方よりアメリカやヨーロッパの農法の方が適しているのでないかと考えた開拓使は、全国に4ヵ所の試験農園を設置します。
この農園は「官園」と呼ばれ、東京・七重・札幌・根室に設けられました。
七重に置かれた官園は、R・ガルトネルから土地を取り戻した場所を「七重開墾場」ととなえ、ここを母体に明治4年から農家18戸62人を移住させ、本格的に開墾作業に取り掛かりました。七重官園は他の官園に比べて、事業内容が畜産・林業・加工・勧業など多岐にわたっており最も実験的な役割を担った場所でした。開拓使の目的は北海道の開拓でしたから、外国産の農作物などが北海道に適するかを北海道でも比較的温暖な七重で試験し、適すれば、その後北海道各地へ広めていきました。
明治7年(1874)、村橋久成を中心に場内の測量をした結果では900ha以上の広さがあったといいます。
明治8年には、アメリカマサチューセッツ州立農科大学で、クラークの教えを受けている湯地定基が場長に任命され、その年の5月には、東京官園からエドウィン・ダンも赴任し、農業や畜産などの指導をしました。
また、桔梗村の桔梗野(現在の七飯町大川から函館市桔梗町にかけて)や大野村の向野を試験場属地とし、桔梗野は綿羊牧場、向野は養蚕場をそれぞれ設置しました。
明治9年7月には、明治天皇が初めて北海道に上陸され、七重官園にもおいでになりました。現在の国道5号沿道に植栽された赤松は、これを記念して植栽されたものです。また、七重官園には、水車場や家畜房、バターなどを製造する製練場といった洋風建造物も多く建てられ、さながら外国のような風景であると、当時の七重を旅行したイギリス女性 イザベラ・バードも日誌に記しています。
開拓使が中心となった事業は、明治14年に一区切りとなり終わりを告げます。その後、民間への払い下げなどで、段々と規模が縮小されていきますが、明治27年まで官園の事業は継続されました。
今では、七重官園に関係する建物は残っておりませんが、事務所のあった七重小学校前に、いまでも石垣の一部が残され、往時の様相を伝えています。