有名な人から意外に知られていない人まで、七飯町の歴史に関係のある人々をご紹介。
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天保2年(1831年)江戸の巣鴨生まれ、安政5年に七重村へ移住した。 当時、七重村御薬園の管理していた栗本瀬兵衛の推奨で園丁長になり、松・杉の苗木の育成にも尽力。 文久3年(1863)に栗本は江戸に戻ったが、鐡太郎は七重に留まり御薬園の経営に務めた。 明治4年に開拓使が置かれると、その手腕をかわれて開拓使雇いとなり、七重官園に勤務。 また、御薬園で育成されていた松の苗木も官園に引き継がれ、明治9年に明治天皇が七重官園を行幸されたのを記念して植栽されることになる。 この植樹に際して、中心的な役割を担ったのが鐡太郎といわれ、植栽された赤松などは現在、国道5号沿いの「赤松街道」として私たちの目を楽しませている。 開拓使廃止後は、自ら果樹園を経営し、その命名を東京に戻った栗本瀬兵衛に依頼。栗本は、鐡太郎が園丁長を務めた七重御薬園を文字って「親子園」と命名し、その趣意書を鐡太郎へ贈与。 鐡太郎は庭師としても優秀で、大蒜沢にあった別荘(現在の大和静観園)の造園を任されるなど、その手腕を発揮し、ななえの開拓に貢献しましたが、大正13年その生涯を閉じた。
嘉永2年(1849年)鹿児島の千石馬場町生まれ。戊辰戦争では、黒田清隆の配下として上野の戦いに参加したという。 明治5年、開拓使の役人を志願し、東京から函館に向かう開拓使御用船東京丸に乗船。函館に着いてすぐ、新道開削工事(現在の国道5号)が始まり、喜二は職工や人夫の指揮監督にあたった。 新道開削工事が終わってからは、七重官園に勤め明治17年まで在勤。その間に彼が記した筆記類が、七飯町指定文化財に指定されている「迫田家文書」である。 明治19年、七重官園の場長だった湯地定基の推薦で、日高国浦河支庁長に任命された。 また、三県制度が廃止されてからは、函館監獄(現在の函館刑務所)の初代典獄に任命されるなど、その人望と行動力が買われ各所で活躍。 官の役職を退いてからも、明治35年に七飯村議会議員に当選するなど、七飯村の行政のために尽力した。
嘉永元年(1848年)アメリカオハイオ州生まれ、同州マイアミ大学を卒業。明治6年に「開拓使農事方教師」として開拓使と契約を交わし、14台の貨車を用いて92頭の牛、100頭の羊、農耕具と共に来日。来日後は、 東京官園に勤め、開拓使官吏や北海道へ行くものたちに欧米式の近代農法や獣医学の技術指導にあたった。明治8年5月~10月の間、ダンは七重官園へ出張することになり、馬の去勢術や農業全般について指導を実施。初めは気性の悪い馬を去勢によって温和にし、同時に遺伝子を残さぬよう淘汰するということが、日本の「気性の悪い馬を乗りこなしてこその馬術」という考えにあまり浸透しなかったのだが、馬術の第一人者であった函館大経がダンの理論(というより欧米の獣医学)に理解を示したことにより、馬の去勢は次第に受け入れられるようになった。 また、ダンは七重出張中に「松田 鶴」という女性と出会い、後に当時では珍しい国際結婚をした。鶴は青森県南津軽郡尾上村出身の女性で、ダンの「回想録」の中で、日本女性の鏡と称えられている。残念ながら若くして亡くなったが、ダンに日本へ永く留めさせる決断をさせる出会いであった。 明治9年からは札幌へ出張し、牧羊場や真駒内牛牧場の設置に尽力するとともに、北海道の気候に適合する農作物の栽培実験やバター・チーズ・練乳の製造およびハム・ソーセージの加工技術を指導。こういった功績から、ダンは「北海道酪農の父」と称されている。明治16年、アメリカへ帰国するが、北海道での功績をかわれ、翌年にアメリカ公使館二等書記官として再来日します。 晩年は公使を辞め、米国系石油会社の日本支配人となったが、1931年5月15日、東京の自宅でその生涯を閉じた。
明治15年(1882年)栃木県鹿沼市樅(モミ)山に生まれ。 明治36年に函館に移住してからは、ロシア語の研究に専念し、その後、日露漁業会社の通訳としてロシアで生活し、また、陸軍通訳官としてシベリアで従事した経歴の持ち主。 しかし、大正13年に「人間に必要な食物を生産する仕事が有意義である」と考え七飯に農地を求め移住。今後、果物の需要が増すだろう・・・という思いから、翌年より本格的に果樹栽培に着手したといわれている。 また、彼は昭和7年から「丸形身不知」という梨の木と「ゴールデンデリシャス」というリンゴの木の接木を実施。その結果、外観がゴールデンデリシャスに似ながらも、梨のように甘味が強い果実が結実するようになった。この成果は、当時の学説では不可能とされていたリンゴと梨の接木が可能であることを証明することになり、田村半吾の功績はセンセーショナルな話題になった。 その後も、果樹栽培・新品種改良に尽力し続けた田村半吾は、七飯農業会の会長を務め農業の発展に貢献し、また、昭和26~30年に七飯村村長に就任すると、今度は村の発展のために情熱を注いだ。彼が生み出した新品種のリンゴは、その後「たむら」と命名されたが、残念ながら、現在はほとんど栽培されておらず、店頭に並ぶこともない。田村半吾の功績と当町が日本における西洋リンゴ発祥の地である歴史を伝えるため、当館では「たむらりんご」を屋外展示として栽培し、多くの人々に紹介するとともに、2008年秋からこの「たむらリンゴ」を使ったジャムを数量限定で、製造・販売しております。
文久3年(1863年)香川県一宮村生まれ、酒造業を切り盛りしていましたが、かねてより北海道に渡って開拓をしたいと考えていたこともあり、その夢を叶えるため、実家の酒造業を兄に任せ、明治25年に北海道へ渡り、北海道庁に勤務した。道庁勤務の間、函館や小樽・寿都などで酒税関係の担当をしながら、来るべき本格的な移住の場所を熟考していたようですが、大沼の自然や景観の美しさに惹かれて、小沼付近の土地を購入した。 そして、明治30年3月に道庁を辞めて故郷へ戻り、同年5月に5戸の家族を引き連れて大沼へ入植した。入植後は、宇喜多農場を創設し、金比羅山から吉野山麓付近を開拓したが、当時、大湿地だった大沼の開拓は困難を極め、農耕を可能にするために排水溝を開削することに多くの労力を費やしたという。 農場敷地内には函樽鉄道の敷設を誘致し、明治36年に場内に停車場(駅)が設置された。そのため、多くの人が入植してくるようになり、農場も盛んになってきた。 また、香川の金刀比羅宮から棟札を頂き、開墾地近くの山に祠を建立し納め、金毘羅山と称されるようになった。現在、この祠は大沼神社そばの小山の頂きに移されている。 その他、宇喜多秀夫は自身の経営する農場だけではなく、大沼小学校の創設・大沼公園の整備に尽力するなど、広く大沼周辺の発展に寄与した。