江戸時代のななえ

幕府直轄時代のころ

17世紀から18世紀にかけて、蝦夷地の周辺にロシアなどの外国船が度々姿を現すようになると、当時、北海道を任されていた松前藩だけでは、外国勢力を防ぐことは出来ないと考え、寛政11年(1799)、幕府は蝦夷地の政治を直接行うことにしました。幕府は、それまでの漁業を通し沿岸の開発をすることから、一転し農業を通して内陸の開発に力を注ぐようになりました。これによって、峠下に水田が作られたり、藤山にも人々を移り住ませ、農業が盛んになるように務めました。

 この頃、七重村に住んでいた倉山卯之助という農民は、文化5年(1808)官地を借り受け、スギ・マツを育成しました。後に、卯之助が育てた苗木は、当時はげ山となっていた箱館山に植栽したり、残ったものは現在の本町にある三嶋神社のそばに植えられました。卯之助の業績は北海道の植林事業の先駆となり、大正7年に行なわれた、開道50年記念式典の際には、北海道拓殖功労者のひとりとして賞されました。

幕末のころ

幕府は200年あまりもの間、鎖国を続けていましたが、安政元年(1854)、アメリカとの間に日米和親条約を結び、開国の第一歩をふみ出しました。これにより、箱館・下田の二つの港が開かれ、外国船が来航するようになりました。幕府は、このあわただしい状況にそなえ、安政2年に、蝦夷地を管理する為に箱館奉行所を設置し、あわせて内地からの移住の奨励と蝦夷地の開拓の指導に重点を置きました。

 箱館が開港されると、七重村は外国人が自由に歩いてもよい地域に指定され、通行する外国人によって初めて西洋の文化に触れることが出来るようになったと同時に、外国船が必要とする牛肉や野菜を供給するため、軍川のあたりに牛牧場が設置されました。また、箱館奉行所は幕府直轄の農園を設け、マツ・スギなどの苗木や薬草を植えました。この農園を七重村御薬園と呼びます。後に、栗本鋤雲が御薬園の管理をするようになると、マツ・スギの育成が勧められます。実は、現在の国道5号に植栽されている赤松街道のルーツはこの御薬園に始まります。

 この頃、幕府は蝦夷地の開拓と警備にあたらせるため、志願者を募っていました。これに応じたのが、関東の八王子付近に配置されていた八王子千人同心とよばれる身分の低い幕府の役人たちでした。安政5年(1859)彼らの中から、秋山幸太郎をはじめとする15名が新天地に夢を馳せ、七重村に入植します。彼らは、水無とよばれていた今の桜町あたりや藤山に移住し、開墾と養蚕・織物を主にした活動を始めました。ちなみに、後に七飯町の町名由来のひとつとなる飯田甚兵衛もこの頃に移住してきました。八王子千人同心の人たちの多くは七重に根をおろし、この町の発展に尽力しました。