先史時代のななえ

ヒトの登場

現在、七飯町では72箇所の遺跡が確認されており、その内、聖山遺跡や国立療養所裏遺跡、
桜町遺跡など10数箇所が発掘され、大昔の七飯の様子が少しずつわかってきました。
 七飯町内にいつ頃からヒトが住み着いたかを調べてみると、鳴川の石井農場近くや大中山、藤城などで貝殻を模様をつけた底の尖った土器が見つかっていることから、今から8,000年前には、既にヒトが活動していたと考えられます。この頃を縄文時代早期と呼び、その後永く続く縄文時代の各時期の遺跡が町内で確認されています。
 今から6,000年ほど前になると、今より気温が2~3度高くなっていたと考えられ、海水面も今より3mほど高くなり、海が大野平野の少し内側まで広がっていたと考えられます。この頃は落葉広葉樹林が広がり、七飯町内に今でも見られるクリ・クルミ・トチ・ドングリなど食料となる堅果類も豊富だったと推測されます。そのため、これらを加工したと思われる石器や土器も煮炊きするだけではなく、貯蔵するための厚手で大型のものが見つかっております。



道具

縄文時代も終わり頃になると、生活のための道具の種類が色々と増え、普段の生活ではあまり使われないような飾り物や、祭祀などに使われたと思われる道具が発達してきました。
 七飯町内にもこの頃の遺跡が大中山や峠下などでみられ、特に峠下地区で調査された「聖山遺跡」は、土器や石器などが集中的に廃棄された痕跡が確認されていることから、祭祀的な場として使用された遺跡であると考えられます。
 本州で稲作りが行われ弥生時代と呼ばれる時代になっても、北海道では金属器の知識は取り入れるものの、冷涼な気候から稲作りが普及できず、縄文時代から続いている狩猟・採集を生活基盤とした暮らしが続きました。
 こうした文化を「続縄文時代」と呼び、七飯町でも、桜町などでこの頃の遺跡が確認されています。