関定吉記念碑(大中山神社境内)

大中山地区は、江戸時代から多くの入植者が定着し村の原型が形成されてきたといわれます。関定吉もその一人でした。
 関定吉は越後国栢陽に生まれ、嘉永6年に蝦夷地に渡りました。
安政6年には中島辰三郎に招かれ、中島郷(現在の七飯町中島地区)の開拓の指導監督に当たります。中島郷を去ってからは一ノ渡銀山、小樽などを転々とし、その後、開拓使の役人として開拓大主典に任ぜられ幌泉の開拓に従事、志なかばで病に斃れ、明治4年11月4日に53歳で逝去しました。
 この碑は、定吉の死後、妻のツルが彼の没後40年となる明治43年に大中山神社の境内に建立したもので、定吉の功績や石碑建立の経緯などが、碑文に記されています。